Aemilius Papus 家


Aemilius Papus 家の系図
アエミリウス・パープス家





Marcus Aemilius Papus
 マールクス・アエミリウス・パープス

貴族
祖父:-
父:-
321 独裁官

 前321年、まずクィーントゥス・ファビウス・アンブーストゥスが選挙を行うために独裁官に指名されたが、手続きに過失があったことが分かって職を辞した。続けてこのマールクス・アエミリウス・パープスが独裁官に指名され、彼はルーキウス・ウァレリウス・フラックスを騎兵隊長に任命した。しかしながら、彼らもファビウスと同様に手続きに過失があったことが判明したため、職を辞した(リーウィウス、9.7.14)。しかし『New Pauly』によると、この話は恐らく史実ではないという。
 この前321年は、ローマ軍がサムニウム軍によってカウディウムの近くで記憶に残る大敗北をこうむった年である。




Quintus Aemilius Papus
 クィーントゥス・アエミリウス・パープス

貴族
祖父:Lucius
父:Gnaeus
孫:Lucius Aemilius Papus(225執政官等)
282 執政官
280 大使
278 執政官II
275 監察官

 すべての官職歴において、公正・清廉で有名なガーイウス・ファブリキウス・ルスキーヌスの同僚を務めた人物。後にこのファブリキウスとアエミリウス・パープスとは、ローマ的な美徳の模範とされた。
 前282年の最初の執政官職の時、彼はエトルリアに出征した(ディオニュシオス、19.13.2)。その間ファブリキウスは南イタリアで戦い輝かしい勝利を収めていたため、ポリュビオスが記すボイイ人とエトルリア人の連合軍に対する勝利は、恐らく彼に帰される。この時、ボイイ人はセノネス人が領地から追い出されたのを見て、自分たちも同じ運命に見舞われるのではないかと不安になり、エトルリア人にも参加を呼びかけた上で、総力を挙げて遠征に出てきた。そしてウァディモ湖(ローマの北約70km)のほとりに集結すると、ローマ軍の戦列と相対した。しかし戦いになるとエトルリア人はほとんど打ち倒され、ボイイ人のごく少数が逃げ延びただけだった(ポリュビオス、2.20)。
 前280年のヘラクレアの戦いのあと、ガーイウス・ファブリキウス・ルスキヌス、プーブリウス・コルネーリウス・ドラーベラと共に、ピュロスとローマの捕虜の返還について交渉した(プルータルコス、『ピュロス伝』20)。
 前278年、ファブリキウスとアエミリウス・パープスが二度目の執政官になっていた時に、次の様なことがあったと伝えられている。
 ローマ軍の陣営に一人の男が王の侍医の書いた手紙をもたらし、危険なしに戦争を止めさせる謝礼がローマ人から貰えるならば、毒を盛ってピュロスを殺すつもりだと申し出てきた。ファブリキウスはこの医者の不正に憤慨し、同僚のアエミリウス・パープスにも同じ気持ちを起こさせ、ピュロスのところへ手紙を遣って早速その陰謀を警戒するように勧めた。
 その手紙の文句は次の通りである。
「ローマの執政官、ガーイウス・ファブリキウス及びクィーントゥス・アエミリウスはピュロス王に敬意を表する。あなたは友人についても敵についても適切な判断者とは言われないようです。我々がお送りするこの手紙をお読みになれば善良な正義の人々に戦争を仕掛けて、不正な邪悪な人々を信頼していることが分かるでしょう。我々はあなたのためを思ってこの事を密告するのではなく、あなたの災難が我々に非難を浴びせ、我々が勇気を以て戦争を終える力がないところから奇計に頼ったと思われたくないためです。」
 この手紙を読んだピュロスは、その陰謀を糾明して侍医を罰し、ファブリキウスとローマ軍にはその返礼に無償で捕虜を返し、再びキネアースを送って講和の交渉をさせた。しかしローマの人々は、敵側の好意にせよ危害を免れた報償にせよ無償で捕虜を受け取るのを潔しとせず、ピュロスに同数のタレントゥム人とサムニウム人を釈放してやり、ピュロスがその乗って来た船でイタリアから武器と軍隊を撤退して再びエーペイロスに帰るまでは、友好及び平和に関して協議することを許さなかった(プルータルコス、『ピュロス伝』21)。
 この年、ファブリキウスとアエミリウス・パープスは南イタリアでピュロス王の同盟者と戦い、勝利した。
 前275年、今までと同様にファブリキウスと共に監察官となった。この監察官職の時、ファブリキウスが執政官級のプーブリウス・コルネーリウス・ルーフィーヌス(スラの祖先にあたる人物)を、10ポンドの銀製の壺を所有している咎で、元老院から追放したことが有名である(プルータルコス、『スラ伝』1)。




Lucius Aemilius Papus
 ルーキウス・アエミリウス・パープス

貴族
祖父:Gnaeus / Quintus Aemilius Papus(282執政官等)
父:Quintus
225 執政官
220 監察官
216 Triumviri Mensarii

 前282年執政官のクィーントゥス・アエミリウス・パープスの孫だとされるが、『The Magistrates of the Roman Republic』などで祖父名はGnaeusとなっている。
 前225年に、ガーイウス・アティーリウス・レーグルスと共に執政官。この年はガリア・キサルピナで大きな戦いがあった。キサルピナのガリア人は、この直近の数年間、敵意の徴候を見せ、アルプスの他の麓の仲間達と結合し、イタリア侵攻を準備していた。ケルト軍がエトルリアに侵攻してローマに迫っているという報告がなされた時同僚のレーグルスは近頃反乱を起こしていたサルディニアに対して送られており、この戦争の指揮はアエミリウスに割り当てられた。この時ローマでは、かつてのガリア人の襲来の記憶から、誰もが不安におののいていた。
 アエミリウスはアリミヌムの近くの、ウンブリアを経由してイタリアに通ずる道の上に自身を配置し、そしてもう一つのローマ軍は法務官の指揮のもとエトルリアに配置された。ガリア軍は、2つの軍の間を巧みに進軍してエトルリアの中心に入り、そこで四方八方を掠奪した。ガリア軍は、ローマの法務官が追いついてきた時、これを撃ち破り、その軍を完全に撃破するところであったが、ちょうどその時そこにアエミリウスが到着した。そこでガリア軍は、その執政官が彼ら自身の領域に向かう前にゆっくり退却した。
 しかし、リグリアに入る海岸沿いの彼らの進軍路で、彼らはサルディニアから呼び戻されちょうどピサに上陸したところだったもう一つの執政官であるレーグルスの軍と偶然出会った。そのためガリア軍は二つの執政官の軍にはさまれる形となり、テラモン(現オルベテッロの北にある海辺の町)付近で戦わざるを得なくなったが、彼らはすべてにおいて不利であったにもかかわらず、戦いは陣地を譲るまいと守り、長く続いた。執政官の一人レーグルスはこの戦いの中で戦死したが、ついに完全にガリア軍は大損害と共に撃ち破られた。ガリア軍7万のうち4万が戦死、1万が捕虜となり、その中には彼らの王たちのうちの一人、コンコリタヌスがいた。
 これまで数百年間、ガリア人の侵攻に守勢にたたされていたローマは、このテラモンの戦い以後、逆にガリアへ侵攻してその地の支配を目指すようになる。
 アエミリウスは敵からの戦利品をまとめてローマに送る一方、敵が略奪した品々をもとの持ち主に返還した。そして勝利に引き続いてリグリアを通って進軍、ボイイの領域に侵入し、そこで軍団の兵士たちに満足のいくまで強奪をさせた。そこに数日とどまった後、彼はローマに帰還し、凱旋式を挙行した(ポリュビオス、2.23-31;オロシウス、4.13;エウトロピウス、3.5;ゾナラス、8.20;フロールス、2.4;アッピアノス、Celt.2)。
 また、カピトリウムに敵の軍旗とマニアケス(ガリア人が首のまわりに掛ける黄金製の輪)を奉納した。ガリア人はかつてのローマ占領時(前387年)にカピトリウムだけは占拠できなかったので、カピトリウムに登るまでは胸甲をはずさないと誓っていた。そのため、この奉納によって皮肉にもこの誓いが実現することになった(ディオン・カッシオス『ローマ史』断片50)。
 アエミリウス・パープスは、ガイウス・フラーミニウスと共に前220年、第2次ポエニ戦争が起こる2年前に監察官となった。この年の人口調査で、27万213人の市民がいた(リーウィウス、Epit.20, 23.22)。
 前216年、パープスはこの年の資金の欠乏のため、ミヌキウス法によって任命された三人委員のうちの一人となった(リーウィウス、23.23)。








Marcus Aemilius Papus
 マールクス・アエミリウス・パープス

貴族 ?-210
?-210 クーリオ長

 クーリオ長*であったが、前210年に死去した(リーウィウス、27.6.16)。そのあとを前209年に継いだガーイウス・マーミリウス・アーテルスは、この役職に就いた初めての平民となった。

 *クーリオ長(curio maximus)
 旧い三部族 tribus の下部単位 curia の長をクーリオと呼び、クーリオ30名の統括者をクーリオ長と称した。curia に基づくクーリオ民会はケントゥリア民会の創設後(Liv.1.42〜43)、政治的意義を減じたが、新選出公職者への命令権賦与、市民の養子縁組の承認など宗教的な機能を保ったので、その長は伝統的敬意を集めたと思われる。





Lucius Aemilius Papus
 ルーキウス・アエミリウス・パープス

貴族 ?-171
205 法務官(シチリア)
?-172 X vir s.f.(Decemviri Sacris Faciundis)

 前205年の法務官で、シチリアを管轄として得て、そこで軍隊を指揮した。このアエミリウス・パープスの下、皇帝アウグストゥスの曾祖父のガーイウス・オクターウィウスが軍団副官として従軍していた(リーウィウス、28.38;スエトニウス『ローマ皇帝伝』アウグストゥス、2)。
 前172年に「Decemviri Sacris Faciundis(恐らく、シビュラの書を調べ解釈するための十人委員)」であった時に死去した(リーウィウス、42.28)。彼は恐らく、この聖職を前211年に受け継いだマールス・アエミリウス・レピドゥス(218法務官等:三頭政治のレピドゥスの祖父の祖父)のあとを継いでいた。





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